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七飯のななイイ話 01

西洋りんご発祥の地

七飯町での西洋りんご誕生は
日本における西洋式近代農業のはじまりだった

七飯町は日本で最初に西洋りんごが栽培された町です。そのため現在も特産品のひとつであり、町の花には「りんごの花」が制定されるなど、りんごとの関わりはとても深い町です。

日本で初めて、西洋りんごを栽培したのは、プロシア人(現ドイツ)のR・ガルトネルという人物です。 彼は、江戸末期に函館を出発し、道南各地をまわり農業の適地を探しました。山からの豊富な地下水と最適な日照条件、肥沃な土地、そして港のある函館から近距離であるという条件により、七飯の土地が適しているという判断をしました。
ガルトネルは、明治元年(1868)の箱館戦争が起こっている混乱期に、西洋式近代農業を農民達に伝習することを条件に、300 万坪という広大な土地を借り受ける「七重村開墾条約」を蝦夷地を占領していた榎本武揚らと締結しました。

明治2 年から本格的な開墾が始まりました。ガルトネルは、あくまでも栽培から生産・販売を目的とし、将来的には食料として流通させるために、西洋りんごをはじめ、ブドウなど様々な苗木22 種を海外から取り寄せ、西洋式の大型農器具を持ち込んだのです。よって七飯町は、西洋りんごだけではなく、日本における西洋式近代農業の発祥地とも言えるのです。

ところが明治3 年、明治新政府は、300 万坪という広大な土地が外国人の土地であることに脅威を感じ、ガルトネルの農場を足がかりに、北海道のみならず日本が列強国の植民地となることを恐れて、62,500 ドル(10 年前の換算で日本円で約12 億)という多額の賠償金を支払い、ガルトネルから土地を取り戻しました。取り戻した土地は七重開墾場とし、開拓使によって本格的な開墾が行われ、後に通称「七重官園」と呼ばれました。その際に、ガルトネルの植栽したりんご68 本も引き継がれました。

七重官園で、明治5 年〜9 年(1872〜1876)にかけて、アメリカ及びカナダから取り寄せたりんごの苗木の中には、日本でもなじみの深い基幹品種である「紅魁」「祝」「紅玉」「国光」が含まれていました。
また、明治10 年(1877)には、青森県のりんご栽培の先駆者といわれる菊池楯衛が七重官園でりんご栽培を学んだ後に、その技術を広めたことから、青森県のりんごのルーツも七飯にあるということが言えます。

七飯では、官園で苗木の育成や配布を行ったこともあり、明治期から民間でも果樹栽培が広がりましたが、第2 次世界大戦が勃発により増殖の禁止や伐採の命令があり、多くのりんごの木が伐採されましたが、終戦後には、りんご園の建て直し運動が盛んに行われる一方で、新品種の研究など新たな栽培技術が精力的に続々と開発されはじめ、「たむらりんご」をはじめ多くの品種が作られるようになり、現在では、地元でもっとも愛される特産品となりました。

取材協力 / 七飯歴史館 学芸員 山田央さん