Now Loading...

Now Loading...

大沼公園広場付近の開発

生物の繁殖・保護と土地の開墾に尽力した創生期を経て
大沼を愛する人々の努力が結実し、道内有数の観光地へ発展

嘉永2年(1849)、奥羽地方の凶作を機に、軍川へ移住や開墾がはじまり、南部・津軽地方や下総の国の人たちがつづいて入植しました。安政5年(1858)には、箱館奉行が牧場を開き、ウシ50数頭の飼育を始めました。慶応元年(1865)、相馬藩が軍川村の開発事業を行い、4年後に軍川・砂原間の東本願寺道路が完成しました。軍川村の農村として発展する基礎が徐々につくられていったのですが、大沼地区はその時点ではまだほとんど手つかずの状態でした。

人々が住みつきはじめるのは、それから25年後の明治23年(1890年)頃のことです。彼らは大沼・小沼で漁をしながら細々と生活を営んでいたようです。明治26年(1893)、大沼や小沼、蓴菜(じゅんさい)沼で漁をする人々が漁業組合をつくり、協定を結び資源保護などの活動をはじめたのが、大沼公園開発に端緒を与えたといえます。明治33年(1900)には、カバチエポ魚(ヒメマス)の移植、同42年、エビ、昭和2年ワカサギ、ゲンゴロウブナの導入、その他各種コイ、アメリカ産クラツピーなどの放流を行い、試行錯誤をくりかえしながらも繁殖や保護に努め、とくに大沼の経済発展におおいにカを発揮したことになります。また、明治30年(1897)、宇喜多秀夫という人が、出身県の香川県から20数名の同郷の仲間達を引きつれ移住し開拓にあたりましたが、開墾は困難をきわめ、挫折の危機に瀕しながらも、大沼発展の基礎をつくり上げたのは称賛に値するものです。

函館・小樽間鉄道開通の気運とともに、大沼の観光地・避暑地として発展する可能性を予感した人々は、湖畔の地を購入するとともに大沼の開発に尽力しました。

明治36年(1903)6月、函樽鉄道が開通しますが、その5年前、鉄道の路線と駅の設置場所についての誘致運動が活発に展開された経緯があります。鉄道会社に提出された陳情書のなかに、大沼の風光をあますことなく描写している部分があるので紹介しましょう。

「(前略)特に記すべきは大沼、小沼の勝景にして、同沼は一名『ポロトウ』と言い周囲約七里余、南北より出る地峡を以てこれが両湖を分かち、東の大なるを大沼と言い、西の小なるを小沼と言う。その中間に一小島あり。左右十余間を隔て両湖を通す。小沼の中央に水より5寸余出て恰も板を列べたる如き奇岩あり。畳岩と言う。湖内深水中、字喜多開墾岬より峠下村岬に至る十余町間水浅く徒歩にて渡るを得べき奇なる箇所あり。湖上浮動島あり。湧水また沸沸として螺状をなし高さ2、3寸余も湧出するあり。且つ大沼には躑掲山、大石岩よりなる島喚等悉く奇状妙体絶景なること天然と信ずべからざる程にして、而して又人工を以て為す能わざる景色なり」。
誘致運動が実って、鉄道開通と同時に大沼駅が開業し、車窓からの絶景に接した流人たちの口伝で大沼地区の観光地図は、蓴菜(じゅんさい)沼地区から大沼公園広場地区に完全にぬりかわるのです。と同時に、族館、商店、休憩所を経営する人々が現われ、観光地としての態勢が急激に進展していきました。当時すでに「大沼観光案内書」が発行され、その序文に大沼観光の将来構想が語られているのを読むにつけても、大沼の美しさに魅入られ、大沼への思い入れをふくらませていった多くの人々の存在を心強く思います

観光の側面には必ず名産品があります。大沼にも立ち上がりのころから、鯉のあらい、鮒雀焼き、鮒粕漬けや鮒甘露煮、鮒パン、大沼団子、佃煮、筏焼き、どんぐり人形、天然製氷などの名産品が観光振興に役立っていました。

画像提供/七飯歴史館