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大沼の成りたち

駒ヶ岳を仰ぐ風光明媚な景勝地・大沼
古書からひもとく、大沼の歴史と魅力とは

大沼の風光は、主として複雑な水陸の配置と、背景となる駒ヶ岳の雄姿とにありますが、湖上に散在する島々は低く、また白砂の浜もなければ岸壁もなく、凹凸の多い沼沢地に水があふれて湖をなした、というような景観を呈しています。駒ケ岳のもつ女性的景観は、これらの湖水の成因によるものです。自らの艶麗さをうつしだす鏡として、駒ヶ岳は大沼・小沼をはじめ、映える湖沼群を同時につくり上げたのです。大沼の諸湖水が、火山泥流によって河川がせき止められて生成したということは、周知の事実です。しかし、蓴菜(じゅんさい)沼や小沼の一部分に、数十年以上を経た樹木などがそのままの形で沈下している現象から推理すれば、後期において地盤の陥落という要因があったことも同時に確かなことです。

このようにして生成した大沼は、西南から東北に延び、そのほぼ中央部でヒョウタンのようにくびれていて、東北部の大きい方を大沼、西南部の小さい方を小沼といい、中央部のくびれた部分がとくに景勝に富んでいます。

[古記録による大沼]

「大沼」という地名はアイヌ語の「ポロト」からきています。「ポロ」は「大いなる」を意味し、「ト」は「湖沼」や「水たまり」を意味します。すなわち「大湖」または「大沼」ということになり、「大沼」がとられました。
「大沼」という地名が記録に現われたもっとも古いのは、『蝦夷紀行』という書物で、そのなかに「元文(1736〜)の頃、大沼、小沼に鶴が多く住んでいた」とあり、宝歴8年(1758)の写本『津軽見聞記』に、「(前略)ここから道を沢から山にとり三里程行くと内浦の嶽(駒ヶ岳)という焼山(火山)があり、長さは2里ぐらいである。それから沼を二つ越えて、かやべ(道南のある地名:現在の函館市大船町[旧南茅部町])というところまで至る所に山や沢やぬかるみがあり、その湿地帯におびただしい鶴が降り立っていた」とあり、ツルの生息地あるいは飛来地であったことがわかります。

また、『蝦夷巡覧筆記』(1797)には、「そこからかやべ峠へ登る。峠道には木立あり、野原あり、ぬかるみや難所を登りそして下った。ぬかるみや滑る道を下っていくと坂下に少し地面のしっかりしたところがあり、右手に『留の湯』への道があり、大沼にはところどころに小島がある。

沼の縁を行くと深いぬかるみや大木の林があり、右側に駒ヶ岳が見え、すぐ傍を小川が流れていた。小沼峠を登り、小沼の脇の狭い道を行く。小沼は左側にあり、道のいたるところにぬかるみあり」とあり、前述の記録とともに大沼地域が湿地の森林地帯であったことがわかります。

一方、大沼の風光明媚をうたったもっとも古い記録は、『北遊雑誌』(1810)で、「(前略)大沼の沼の奥の山を、よしの山という。よしの山という名を聞いただけでも、故郷が懐かしく思い出される。沼の周囲は三、四里もあろうか。水辺に茂る木々が湖水に映えて美しい。(中略)左の方に小沼があり湖上に小島が三つ四つあり。樹木が生き生きと茂り、岩下の青苔に雨が降りかかる様は今の象潟よりも遥かにすぐれた眺めであると思う」とあります。

[武四郎が描いた大沼]

蝦夷地を「北海道」と命名した幕末・維新の探検家、松浦武四郎は蝦夷に関する膨大な記録や日記を残したが、大沼についても『蝦夷日誌』のなかで、たいへん詳しく書き記しています。
彼が大沼を通過したのは弘化2年(1845)で、そのくだりを紹介しますと、「(前略)2丁ばかり下ると沼の端に出る。ここに小川があり石橋がかかっている。その石橋を渡ると茶屋が一軒あり、即ちここが大沼なのである。この沼の周囲は約8里といわれているが、湾伝いに行けば10里はあるといわれている。この沼中に最近石塚を安置した島が35〜6もある。こちらの岸から向こうの岸は島々が重なり合って見えがたい。この33ケ所の観音は、沼の端の茶屋の主人多之助という人が20年ほど前に建てたということである。この多之助の休憩所からは駒ヶ岳がよく見える。土産にじゅんさい、椎茸、まい茸、沙魚、鱒、蜊蛤右等を参詣人たちは名産品といって買い求めている」とあり、このくだりでは、観音参りの善男善女の島めぐりが、人づてに広まっていったものと思われます。したがって、このころの大沼はある種の霊地として人が集まったところでもあるといえます。

また、別のくだりに「(前略)大沼の辺りに出る。ここに茶屋が一軒あり行き来する人たちに茶菓を売り、日没ともなれば宿屋にもなる。その建物は水面に建てられていて、風景が一段と見事である。舟を雇って湖中へ出ていき島の観音さまを参詣したが、島が多くあるあたりは象潟・松島もものかわ、その風景は筆舌に尽くすことができないほどのものである。この地を東海道、東山道に置いたならば松島を凌ぐであろう」とあり、大沼のことを詳しく述べるとともに、風光の素晴らしさを褒めちぎっています。